電柱

「電柱」

灰色になった田園、

その隣の細い畦道を歩いている。

俯きながら歩いている。


ふっと畦道の水溜りに、

細い縄が映り込んだ。

顔を上げれば電柱が、

灰の空に俯いている。


電線は未来を占った。

田園は僕を阻害した。


僕は水溜りに足を伸ばした。

 

 

不安の溶けた空の上、宙ぶらりんと歩いている。どうか落ちないように慎重に、慎重に。

解放

やることやったので、最高に休日している。やっぱり、休日に面倒なことがあると、それは休日じゃない。休日は自由でなければ。

 

憂うことがなくなれば、心の容量が空くので、いろんなことを受け入れやすくなる。週末は何して過ごそうか。楽しいことで、心の容量を満たしたい。そしたら、来週も元気に楽しく暮らしていける。私にとって、休日は楽しく生きていくために必要不可欠だ。

それは違う

自身が恵まれていないから、他人に恵まれてるくせに、と言うのは、違うと思う。不幸だからって、他人を不幸にしようとするのは、酷いと思う。そう言いたくなる気持ちはわかるけど、それで関係ない誰かを恨むのは違う。他人を不幸に落とそうとすることは、自分が不幸を押し付けられても、何も文句は言えないと言うことだ。恵まれていないからこそ、ありがたみがわかるものだってあるはずだ。痛みを知っているからこそ、優しくなれるはずだ。

痛みなんて知らないで生きていたい。けれども、もう痛みを知ってしまった僕らは、せめて、せめて優しくありたい。ただの不幸で終わらせたくない。痛みが肯定できるまでに、幸せになりたい。

口下手and乱文

伝えることがとても下手なので、心の中のはずっと伝えたいことで溢れている。口で何かを伝えようとすると、途中から何を話していたかがわからなくなって、意味不明な感じになってしまう。文章で何かを伝えようとすると、心が先にいってしまって、文章のつながりが薄くなって、説得力がなくて、読みづらい。うーん、どうしよう。練習とかしたほうがいいのか?めんどくさいなぁ。やる気ない。

感情的になると散文は悪くなるけど、感情的じゃないと文章が書けない。そろそろ、落ち着くことを覚えたい。精進する。

可能性のるつぼ

本当にすごい人は、小さい頃から可能性に溢れかえっている。最近、そう思った。彼らには道がたくさんあって、それを自分の好きなように選択して、大人になっていく。私の行く先はいつだって一つしかない。そこ以外に行ける場所がない。私の身の程にあった、私らしい生き方、悪く言えば、しょうもない生き方をするしかないのだ。

こんなふうに、悪口を吐いて見せる時点で、私の行く先は決まっている。後悔のない選択はできない。そもそも、選択肢なんて持ち合わせない。後悔しているというのは、私に他に道があったと信じたいからだ。こんなしょうもない人間も、若い頃は可能性に満ち溢れていて、選ばなかっただけと、言い訳しているだけだ。本当は、選べなかっただけなのに。まだ、若いからどこへでもいけます。ならば、行ってみろよ、どこへでも。人生がもしも一本道ならば、私は人生に覚悟を持つことしかできない。後悔は後悔していないと強がる他にない。強がって生きていくしかない。

 

変わらなくても、変えれなくても、それは諦めていい理由にはならない。生きているうちに答えは出ない。

外に出る=不安?

さっきまで、週末に外に出る予定があるので、憂鬱な気分でしたが、よくよく考えてみれば、不安になる要素が一つもありませんでした。どうやら、私は外に出る=不安になっているようです。ここ一ヶ月、ずっと淡い不安がありましたが、ちょっと考えるだけで解消されるのですから、なかなか不思議なものです。意味もなく不安になっていたのですから、どうも心の調子が良くないらしい。辛いことがあると、判断能力が鈍ってしまうので、しっかりと考えなければならないなと、再確認しました。

もやもやとした感情

胃の中にずっと未消化の感情がある。数年前からずっと未消化のまま存在している。そいつは、私が文を書く理由でもあり、私を苦しめる元凶でもある。私はこいつを明らかにすることで、文を書いている。形にしている。

未だ心の霧は晴れず、今日も文を書く。このもやもやとした感情が何なのか、私は知らない。一生、このもやもやがなくなることはないと思う。それは、生きていく上で必ず発生する感情が蒸発してできたのだから。雲みたいに形を変えたり、漂ったりはするけれど、ずっと心の中にある。私はこれを吐き出すための友はいないし、恋人もいない。だから、どうしようもなく、仕方なく、それでいて幸せに文を書くことしかできない。感情を消化することは、あらゆる形に昇華することだ。今日も書かないと生きていけない。でも、それが幸せだ。