許されないことも、許されることも、苦手です

許されないと思うと悲しくなりますし、許されるとなれば、それはそれで何だかなぁという気持ちになります。許されたくないわけではないのですが、そういうのを受け取ってしまうと、自分が正しいように感じてしまい、空へ飛んでしまいそうになるので、私が本当に正しくあるために、許されないでいたいのです。じゃあ、どうされたいのかといえば、許すとか許さないとか気にしないで、関わってくれればな、と思っています。そんな人いませんね。はい。

努力とかいう才能

私は小さい頃から努力ができない人でした。夏が来るたびに三日分だけ押されたラジオ体操のスタンプカードが増えていく。そんな私なので、努力できる人が羨ましくもあり、こんな見出しで文章を書き始めたのです。

実際、努力は才能だと思います。何も起こらなければ、私はいつまで経っても、努力しないでしょう。ならば、努力を環境や機会だといっても、結局は運です。そういった運を、私は才能と呼んでいるのだから、努力は才能なのです。

私は別にそこまで努力が才能であることを憎んでいません。ただ、努力をすれば褒められるということが憎いのです。こういっている私だって、努力をする人を見ればすごいと褒めてしまいます。それが、本当に憎いのです。だから、それを才能だなんていって、蔑もうとしているのです。私も努力ができたらいいのになぁ。

変わってしまう私

ここ数年で私は随分と変わった。性格とか、環境とか、考え方とか、随分と変わってしまった。

ここで私が「変わってしまった」というのは、仲の良かった友達に何も告げずに変わってしまった罪悪感のせいだ。

私が変わったことを彼らは知らないし、彼らの変化も私は知らない。ただ、思い出の中に彼らは居て、それは綺麗に輝いてる。思い出の中の彼らはいつだって微笑んでいる。

私の昔を知る人は、きっと彼らだけだから、私が変わったと知る人は、きっと彼らだけだ。私はこれからも彼らを忘れるつもりはないし、彼らも私のことを忘れないで欲しい。それは、楽しかった記憶を忘れてしまうのは悲しいから。昔の頑張っていた私が忘れ去られるのは悲しいから。

でも、忘れられてもいいのかもしれない。思い出は人を形作るのだから、忘れられても、私が彼らの構成要素になれるなら。

彼らを構成するものの中に私がいれば嬉しいなぁ。

熱量について

すごいゲームとか、すごい本を体感したあと、とても苦しくなることがある。とてつもない才能や努力や熱量を感じて、私がとても小さな人間なことに気づいてしまう。私の体が暑くなり過ぎてしまう。

多分、嫉妬しているのだと思う。私が消化できていない感情を消化しているところや、私が持っていない人を動かす力に、嫉妬しているのだと思う。あるいは、私の心に入れないために、必死になって抵抗しているのかも知れない。まだ知りたくない答えを拒絶しているのかも知れない。どっちにしても、苦しくなってしまう。私はそういうものに極力、目を通したくない。けれども、私もそういうものを作ってみたい。

私を構成するもの

どこかで聴いた音楽や、どこかで読んだ本。

どこかで見た絵画や、どこかで聞いた会話。

私を構成するのは、それらだろう。

私の考え方は、あらゆるものに影響を受けて、いつの間にか私の顔をしている。本や音楽、絵画や会話、その全てが心の中に我が物顔で入って、そいつと私は同居している。厳密にいえばそいつは私じゃない。本当の私とは何なのか、私にだってわからない。けれども、いろんなものに影響を受けすぎて、私はとても薄くなっている。

自分で考えたこと以外意味はない。

確固たる私が欲しいです。私は心を閉ざしたい。何も受け取りたくない。

 

人という字は、人と人とが支え合ってできている。互いに考えを押し付けあって、自分の影響下に置こうとしている。私の言葉が誰かの心に我が物顔で入りますように。本当に大事な言葉は心の中にしまっておいてもいいと思う。そのぐらいは許してくれる。

嫉妬

「嫉妬」

欲しいものはたくさんあります。

でも、誕生日に全てを贈る必要はありません。

欲しいものこそ私です。

足りないものこそ私なのです。


私には私がわかりません。

けれども、私がわからないと言うことはわかります。

私は私しか知りません。

私は私以外が欲しいです。

でも、それが何かはわかりません。


それはあなたのようなもの。

空を飛べたらいいのになぁ。

 

 

私の悪いところで、何でも心の中に入れてしまうところがあります。私は私を守るために、何もかもに反骨精神を持って接さなければならないのに、どうしても心の中に入れてしまいます。そのせいで、私は私がわからなくなってしまいました。全部嫌いと言えたらいいのに、最近はそう思っています。

言葉がコロコロ変わるから

私の書いた文章を久しぶりに読むと、言葉の変化に驚くことがある。例えば、一人称。昔は、「おれ」だったのに対して、今は「私」(今は昔みたいですね)。昔は断定形ばかりだったのに、ある特定の時期になると、「思う」だとか、「たぶん」だとかが増えてくる。言葉は図らずして、私の心を語っているのだ。

同じように、昔、流行った言葉を見ると、時代の変化に驚くことがある。毎年発表される流行語大賞をずーと遡ってみると、今では古いやら、おじさんくさいだのと、言われる言葉が、流行語として載っている。私がよく喋っていた言葉も今では全くもって意味がちがう。言葉は変わる。そこに時代の流れを感じることさえもできるのだ。

 

私たちは、言葉がコロコロ変わるから、昔の本を正しく読めない。言葉がコロコロ変わるから、古文を勉強しなければならない。言葉がコロコロ変わるから、みんなみんな変わっていく。それは悲しいことではなくて、いろんな言葉にビンテージ品のように、重厚な香りがついていくということだ。私の言葉が、コロコロ変わりますように。